遍路の原型は平安時代、真言宗の開祖である空海(弘法大師)が四国で巡った修行の道。
それから、1200年。現在ではバスツアーや電車を使った移動も増えてきたお遍路巡りですが、ここ数十年前までは厳しい環境の中を全て徒歩で巡礼する『歩き遍路』が主流でした。
お遍路巡りが本格化する3月に向けて、
四国八十八箇所最後のお寺・大窪寺までの今はほとんど歩く人がいない『へんろ旧道』を巡り、本当のお遍路をとは何かを探しに行ってみました。
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今回、お遍路道を紹介してくださったのは香川へんろ研究会の渡邉達雄さん。
渡邉さんがまず私たちに見せてくださったのは、『四国遍路道指南』
1687年に真念が刊行した初めてのお遍路ガイドマップ。一番札所霊山寺から八十八番札所大窪寺と定めた初めての本でもあった江戸時代の人々はこれを片手にお遍路参りに向かいました。
先日、天体博物館とおへんろさんへの休憩所として生まれ変わることが決まった旧多和小学校からスタートします!
渡邉さん「『札所と札所を結ぶ遍路道こそが霊場』と呼ばれるほど、遍路道の途中でこそ本当のお遍路巡礼を見つけれる。歩き遍路をするお遍路さんの、血と汗で固められたような道も歩いてもらいたいと思います。」
江戸時代の遍路マップ、『四国遍路絵図』の中にには、ここから大窪寺までの道を「ヘンロサカ」と呼ぶ歩き遍路の難所でした。
しかし、今では道が整備されてその影はありません。
今回は、その難所にそった旧遍路道を近世のお遍路さんになりきって歩いてみたいとおもいます。
現代の地図だとこんな感じのルートを辿ります。旧多和小学校から東谷地区→竹屋敷→槙川→そして大窪寺のある兼割地区へ。
(ピンクの線は当時のへんろ旧道が残る場所。△はへんろ墓)
ところで旧多和小学校前にはこんな石碑があります。
四十五丁石地蔵。
お地蔵さんの上に書いてある数字は、大窪寺まで距離を示しています。
方向をしるす遍路道標とは違い、1丁ごとでカウントダウンするように建てられています。
こっちは道標。
1丁は今の距離でおよそ109cm。つまり、大窪寺まであと約5kmということですね。
この丁石地蔵は江戸時代、お遍路ブームの中で四国の有力者たちが1丁ごとにお遍路さんの安全と自分たちの様々な思いを乗せて作られた石碑です。
今回は大窪寺までこの丁石地蔵を見つけながら昔の遍路道を探る旅でもあるんです。
しばらく歩くと、「一夜庵」という立て看板が見えてきます。一夜庵とはお大師さん(空海)がここで一夜の庵を結び、火を吹く山を鎮めたという伝説が残る場所。
そしてこの先に竹やぶが見えるのですが…
「この先が本当は旧遍路道だよ。今は竹やぶで通れなくなっているけど…」
えーー!ここまで廃びれてしまっているのか旧遍路道。道の痕跡すらありません。。。
竹やぶの先にあったへんろ道に沿うような形で先に進みます。
「少ないけど旧へんろ道の面影が残っているところは他にちゃんとある。そこをお楽しみに」
渡邉さん「そこをみてください、そこにも石碑が見えるでしょう」
向かいに並ぶ十数個石碑。
「これがへんろ墓、巡礼なかばで倒れていったお遍路さんのお墓です。」
お墓…確かに良く見るとその人の出身地と戒名が彫り込まれています
「葬ってお墓を立てたのは、この遍路沿いに住んでいた集落の方。多分今私たちが歩いている新しい道路を作る時に建っていたお墓をここに移してきたんだと思います。」
ひっそりと立ち並ぶへんろ墓。お墓らしく整えられているもののあれば、道端の大きめな石を積み上げただけのようなものもあります。
ここは分かりやすいですが、道路の路肩の影にぽつんとへんろ墓があったりただの石だと思っていたものがへんろ墓だったり、車で通っていればまず見つけることは出来ません。
おへんろ墓に刻まれる名前は長州や信州、北陸、関東、九州と様々。
現代の私たちでは想像できない当時のへんろの厳しさと、その倒れた道を私たちが歩いているという重さがずしっとほんのり雪の残る道を歩きながら、どうしても考えずにはいられなくなります。
そして、私たちは分かれ道に。
今のへんろ道とは違う『忘れられたへんろ道』を歩き始めました。
【次回】
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