向かって一番左端のは、むかえ地蔵なのだそうです。
六地蔵は焼き場があった所に作られるもので、六地蔵は子どものお地蔵さん。
亡くなった子どもの魂を迎えに来てくれるのがむかえ地蔵なんですって!
六地蔵さんによくよだれかけを掛けてあるのは、
よだれかけは子の匂いが一番付いているものなので、
むかえ地蔵に自分の子を知らせるためなのだとか。
なるほど…そんな願いがあったんですね…。
静御前の五輪塔。
横には子の墓。
その横には侍女琴路のものも並んでいました。
六地蔵は焼き場があった所に作られるもので、六地蔵は子どものお地蔵さん。
亡くなった子どもの魂を迎えに来てくれるのがむかえ地蔵なんですって!
よだれかけは子の匂いが一番付いているものなので、
むかえ地蔵に自分の子を知らせるためなのだとか。
横には子の墓。
その横には侍女琴路のものも並んでいました。
道路を作る関係で移動になったのだとか。
静御前の母磯野禅師は、今の東かがわ市丹生の小磯出身。
小磯の大庄屋の子として生まれました。
幼い頃京都へ出るようになって、舞・礼儀作法を習い、白拍子(平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の演者)に。
舞が上手だったため、禅師の称号をいただいたんだそう。
大内町誌には、後白河法皇の愛人だったとあり、
静御前は後白河法皇の落とし子で高貴なお方だとも説明していただきました!
後ろにある、五輪塔が本当のお墓だそうです。
鼓渕
静御前が尼になるにあたり、義経への未練を断ち切るために
鼓を流したと言われるところ。
鼓はとても立派なもので、バイオリンで言うストラディバリウス程のものだったのだとか!!
元々は東大寺のお坊さんが唐からお土産に持ち帰り、後白河法皇に差し上げた品。
平清盛が関白大臣になるときに祝儀の品として与えられました。
後に清盛が自分の娘を天皇に嫁がせる際に持たせ、
平家の宝物となりました。
壇ノ浦の戦いで敗れたとき、源氏に取られないようにと
宝物を全て海に流し、
海に浮いていた鼓を義経の四天王の一人が拾い上げ、義経に献上。
それを大好きな静御前に、吉野の山で分かれる時、自分の代わりにと持たせたそう。
今は用水路の幅しかありませんが、
明治時代末までは子ども達が泳げるくらいの幅があったのだとか!
昭和のはじめの頃は、清水がこんこんと湧き出る美しい渕だったそうですよ♪
ここで鼓を流してから4年後、24歳で静御前は亡くなりました。
ここの地名に初音とあるのは、
静御前が流した『初音の鼓』 の名前からついているそうです。
長尾寺に到着!
残念ながら、やっちはここで終了。
みなさん、お疲れ様でした!
自分が住んでいる地域の歴史、これを機会にもっと知りたくなりますね!
昔の出来事に思いを馳せる体験。
とっても有意義な時間でした(*^▽^*)
みなさんも機会があれば、是非参加してみてはいかがですか!?
【関連記事】
大内町誌には、後白河法皇の愛人だったとあり、
静御前は後白河法皇の落とし子で高貴なお方だとも説明していただきました!
鼓を流したと言われるところ。
鼓はとても立派なもので、バイオリンで言うストラディバリウス程のものだったのだとか!!
元々は東大寺のお坊さんが唐からお土産に持ち帰り、後白河法皇に差し上げた品。
平清盛が関白大臣になるときに祝儀の品として与えられました。
後に清盛が自分の娘を天皇に嫁がせる際に持たせ、
平家の宝物となりました。
壇ノ浦の戦いで敗れたとき、源氏に取られないようにと
宝物を全て海に流し、
海に浮いていた鼓を義経の四天王の一人が拾い上げ、義経に献上。
それを大好きな静御前に、吉野の山で分かれる時、自分の代わりにと持たせたそう。
明治時代末までは子ども達が泳げるくらいの幅があったのだとか!
昭和のはじめの頃は、清水がこんこんと湧き出る美しい渕だったそうですよ♪
静御前が流した『初音の鼓』 の名前からついているそうです。
みなさん、お疲れ様でした!
昔の出来事に思いを馳せる体験。
とっても有意義な時間でした(*^▽^*)