さらです。
2014年1月26日(日)、さぬき市津田町にある
さぬき市津田公民館で、
さぬき市津田公民館で、
<津田古墳群 >
国史跡指定・記念講演会
「津田湾をめぐる古墳群の謎」
が開催されました。
さぬき市教育委員会の主催で行われたこの講演会には、
立ち見が出るほど多くの人が来場し、
国史跡に指定された津田古墳群への
関心の高さをひしひしと感じました。
会場となったさぬき市津田公民館。
講演会は13:00から始まりました。
さぬき市・大山茂樹市長による開会のあいさつ。
続いて、あそたつでもお世話になっている
大川広域行政組合埋蔵文化財係・松田朝由さんが、
『津田古墳群の概要説明』と題して、
発掘調査を行った立場で津田古墳群について説明されました。
津田古墳群とは?
古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)にかけて、
津田湾沿岸地域を中心に築造された
9基の首長墓のことをいいます。
古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)にかけて、
津田湾沿岸地域を中心に築造された
9基の首長墓のことをいいます。
これら9基の古墳は、
「地元色の強い古墳」から「畿内(大和政権)色の強い古墳」へと、
変化していく様子が見て取れるため、
大和政権が地域社会へ浸透していく過程を示す、
貴重な古墳群として注目されています。
分かりやすい例をいくつか挙げて説明されました。
例えば、『石棺の埋葬方向』
地元色の強い時代→東西方向
畿内色の強い時代→北南方向
と変化していったのだそう。
「北枕」という風習がありますが、
それが変わるということを想像すると、
社会に大きな変化があったことが分かりやすいですよね。

「わたしと津田古墳群」と題して
元・津田湾古墳群調査検討委員会 委員長の
六車恵一さんが講演されました。
六車さんは、1965年(昭和40年)に
巨大な古墳を造り、大和政権とも密接に関係していた首長が
昔のさぬき市にいたのだということに驚きです。
来場されていた方々は、時々、メモを取るなど、熱心に話を聞いていて、
なんとなく会場が熱気に包まれているような、そんな講演会でした。
*:..。o○☆ *:..。o○☆ *:..。o○☆ *:..。o○☆ *:.
さて、今まであそたつミステリーハンターとして
だから、古墳が多いのでは?
ド素人の勝手な想像ですが、
こんな風に誰でも歴史のロマンに思いを馳せることができるのが、
考古学の良いところですよね。
点と点がつながっていくようなところが、
ちょっとミステリーと似ているような気がします。
知れば知るほど、古墳って楽しいかも!
「日本列島の古墳時代前半の縮図」と言われる
津田古墳群
ぜひ、さぬき市で歴史のロマンにふれてみてくださいね。
六車恵一さんが講演されました。
「讃岐津田湾をめぐる四、五世紀ごろの謎」
という論文を発表され、現在につながる
津田古墳群研究のきっかけを作られた方です。
高校生の頃から考古学に興味を持ち、
社会人となって学校の教員をされていたときも、
余暇を利用して考古学研究を続けられてきました。
「瀬戸内海の航路の要所に古墳があるのではないか」
という考えから、天然の良港である津田湾が
条件にぴったり当てはまっていると思いつき、
津田古墳群を本格的に研究し始めたのだそうです。
論文発表から約50年を経た今、
津田古墳群が国指定史跡となったということで、
六車さんも感慨深いようでした。
休憩を挟み、

「津田古墳群から見た古墳時代の政治構造」と題して、
文化庁記念物課の文化財調査官である林正憲さんが講演しました。
林さんは津田古墳群の国指定遺跡となる際、
文化財調査官として尽力された方です。
それと同時に、古墳時代の研究者でもあるので、
今回は、調査官と研究者、二つの立場からお話されていました。
国史跡に指定されるということは、
さぬき市だけでなく国の歴史の上でも
重要だと認めらたということ。
これほど海に近い場所にある古墳群は、今のところ
史跡指定されたものの中には無いのだとか。
「国史跡に指定されることは、ゴールではなくスタート。
今回会場に来ていただいた皆さんからも、
津田古墳群の重要性を伝えていって欲しい」
そして、研究者としては、
大和政権のある畿内の側から見た津田古墳群の変化を、
出土した鏡や埴輪などを元に解説されていました。
「自分が研究しているからかもしれませんが、
古墳時代ほどドラマチックな時代は無いと思っています。
これほどまで大きな古墳を造る情熱はどこから生まれたのか」
と、林さんがおっしゃっていたのが印象的でした。
最後に、

津田古墳群調査検討委員会・副委員長をされた
広島大学大学院教授・古瀬清秀さんが
コーディネーターとして加わり、
という論文を発表され、現在につながる
津田古墳群研究のきっかけを作られた方です。
社会人となって学校の教員をされていたときも、
余暇を利用して考古学研究を続けられてきました。
という考えから、天然の良港である津田湾が
条件にぴったり当てはまっていると思いつき、
津田古墳群を本格的に研究し始めたのだそうです。
津田古墳群が国指定史跡となったということで、
六車さんも感慨深いようでした。

「津田古墳群から見た古墳時代の政治構造」と題して、
文化庁記念物課の文化財調査官である林正憲さんが講演しました。
文化財調査官として尽力された方です。
それと同時に、古墳時代の研究者でもあるので、
今回は、調査官と研究者、二つの立場からお話されていました。
さぬき市だけでなく国の歴史の上でも
重要だと認めらたということ。
史跡指定されたものの中には無いのだとか。
今回会場に来ていただいた皆さんからも、
津田古墳群の重要性を伝えていって欲しい」
大和政権のある畿内の側から見た津田古墳群の変化を、
出土した鏡や埴輪などを元に解説されていました。
古墳時代ほどドラマチックな時代は無いと思っています。
これほどまで大きな古墳を造る情熱はどこから生まれたのか」
と、林さんがおっしゃっていたのが印象的でした。

津田古墳群調査検討委員会・副委員長をされた
広島大学大学院教授・古瀬清秀さんが
コーディネーターとして加わり、
ミニシンポジウムが開催されました。
このシンポジウムの中で、私が一番印象に残ったのは、
「これほどの古墳を造った首長たちは、
地元の人だったのか?
それとも、
大和政権から派遣された人だったのか?」
という議題です。
林さんも松田さんも、根拠を挙げて
「地元の首長だったのではないか」
という考えを述べられていました。
「これほどの古墳を造った首長たちは、
地元の人だったのか?
それとも、
大和政権から派遣された人だったのか?」
という議題です。
「地元の首長だったのではないか」
という考えを述べられていました。
昔のさぬき市にいたのだということに驚きです。
なんとなく会場が熱気に包まれているような、そんな講演会でした。
津田古墳群の謎を追ってきましたが、
「さぬき市にはなぜ古墳が多いのか?」
という謎に、私なりの答えを出してみました。
まず、さぬき市の津田湾が
瀬戸内海の交通ルートの重要な港だったため、
早い時期から畿内の大和政権の影響を受けた。
また、海の向こうの国と活発に交流する首長がいたため、
文化や技術をいち早く取り入れることができた。
「さぬき市にはなぜ古墳が多いのか?」
という謎に、私なりの答えを出してみました。
瀬戸内海の交通ルートの重要な港だったため、
早い時期から畿内の大和政権の影響を受けた。
文化や技術をいち早く取り入れることができた。
こんな風に誰でも歴史のロマンに思いを馳せることができるのが、
考古学の良いところですよね。
ちょっとミステリーと似ているような気がします。
知れば知るほど、古墳って楽しいかも!


国史跡指定記念講演会「津田湾をめぐる古墳群の謎」
開催日時/2014年1月26日(日)
開催場所/さぬき市津田公民館1階ホール 【地図】
お問い合わせ/さぬき市教育委員会生涯学習課 文化財係
(TEL:0879-42-3107)
開催日時/2014年1月26日(日)
開催場所/さぬき市津田公民館1階ホール 【地図】
お問い合わせ/さぬき市教育委員会生涯学習課 文化財係
(TEL:0879-42-3107)
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