2017年06月14日

高松藩主と関わりの深い「霊芝寺」その@なぜ高松藩主のお墓がここに?@末

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志度インター降り口から南へ車で3分ほどのところにある「霊芝寺」
さぬき市末という穏やかなエリアの山間中腹にあるこのお寺、実は…

高松藩2代目藩主 松平頼常公水戸藩二代目藩主 水戸光圀の長男)
9代目藩主 松平頼恕公十五代将軍 徳川慶喜の伯父)の菩提寺。

頼常公と頼恕公のお墓所と、お殿様がお墓参りに訪れる休憩所「御成所(お成りの間)」があるんです。

2017年6月4日(日)には、数年かけて修復した「御成所」の完成を記念して、
「御成所」のお披露目と「お墓所」の見学会が地域の方むけに行われました。


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松平家の菩提寺は代々、高松市の法然寺。
ではなぜ2代目 頼常公9代目 頼恕公のみこの場所にお墓が作られたのか…?

お披露目会に参加してお聞きしてきました。

この週末6月18日(日)に御成所が再び一般公開されますので
足を運ぶ前にチェックしてみてくださいね♪




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霊芝寺は弘仁年中に弘法大師が創建されたと伝えられています。
寛文2年には高松藩主 松平頼重公が山城国西明寺の僧 恵忍律師を招いて寺院の復興を命じ、堂宇を建立。
頼重公に連れられ、子供の頃からここに慣れ親しんでいた2代目 頼常公が、延宝4年に「霊芝寺」と改めて本堂を建立しました。


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県道から坂道を上り、立派な山門をくぐると目の前に本堂。

本堂の右奥に「御成所(お成りの間)」、奥に行くほど山深くなり、松平家のお墓所や見晴らしの良い奥の院があります。

ちなみに「御成所(お成りの間)」はお殿様がお寺に来られた時にお通しする間のこと。




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2017年6月4日(日)には、数年かけて行っていた「お成りの間」の修繕が完成したことを記念して、松平家のご当主や修繕に携わった方をお招きしてお披露目会が行われました。


(霊芝寺ご住職 長楽さん)

「御成所(お成りの間)の修繕には松平家ご当主もご協力、援助をくださり、学芸員や職人さんから意見をもらって進めました。修繕の中で縁を頂いた人へのお礼としてお披露目会を行います。

 藩主の生きた時代を、お茶を飲みながら感じていただき、これを機会に気軽に霊芝寺に足を運んでいただきたいです」



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本堂での法要ののち、まずは本堂裏にある「お墓所(ピンク色で囲んだ部分)」の見学へ。

解説の香川県立ミュージアムの学芸員 御厨さんと共に向かいます。


(香川県立ミュージアム学芸員 御厨さん)

「もともと高松城を治めていた生駒家が城を取り上げられた後、水戸光圀公の兄にあたる頼重公が幕末まで高松を治めました。

 その間、松平の歴代のお殿様は高松市にある法然寺か霊芝寺にお墓が建てられました。

 ではなぜ2代目の頼常公と9代目の頼恕公だけが「霊芝寺」にお墓を建てたのか…

 それは、お二人が水戸家から松平家に養子に入ったことから、水戸家式『儒式』で葬られたからです。

 (他の松平家藩主が葬られている法然寺は仏式)

 さらになぜ2人が高松ではなく、さぬき市の霊芝寺を選んだのか。それははっきり記録には残ってはいません」


なぜ2代目の頼常公と9代目の頼恕公がここを選んだのか?

お墓所を見れば、なにかがわかるかも??



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この日はお墓の見学と同時に献茶が行われます。

松平家にゆかりのある理兵衛焼に葵の御紋をあしらったお茶碗で、現在の14代目理兵衛さんが御成所の完成に合わせて贈ってくださったものだそう。

松平家初代 頼重公は京を好み、当時京都で流行していた「色絵」という焼き物の技術を高松に運び、専用の焼き物を焼かせました。それが「理兵衛焼」です。



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お墓所へは山の中へ入っていくような道をしばらく歩きます。

木漏れ日が気持ちいい…と思っていたら、途中からは普通の山登りレベルの坂道。

「こんな坂の上にお墓があるのね」とみなさんびっくり。



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さらに石段を登りつめると、お墓所に到着。

さらにお墓所を見学するために、少しだけ石段をのぼります。


この日は松平家ご当主の計らいでお墓所の見学ができましたが、

普段一般公開されておらず、松平家のお墓ですので立ち入ることはできません。

お墓所の撮影も禁止されていますので、ここからは文字でレポート!



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🚩お位牌所

2代目 頼常公9代目 頼恕公のご位牌が置かれている場所。ここで献茶を行いました。

お殿様が参詣するときはここまで籠で乗りつけ、草履を脱いだそう。

神聖なお墓所では土足が禁止されていたようです。



🚩2代目 頼常公のお墓所(水戸藩二代目藩主水戸光圀の長男)

お位牌所から左手に数段石段をのぼり、見えてきたのはかなり広い敷地。

奥に伸びる石畳の先に下の段、中の段、上段と3段構造の段が組まれ、上段に長方形のスラっとしたシンプルな墓石が1つ。

儒式の特徴として、墓石には「戒名」ではなく「諡(おくりな)」をつけます。

頼常公の諡は「節公」。

藩の財政に成功したので、節約の節という字を用いたのでは?と言われています。

ちなみに松平家の中でも、戒名とともに法然寺に葬られた方でも諡をつけ、亡くなった後や記録に残す時も諡で呼んでいたそうです。



🚩9代目 頼恕公のお墓所

頼常公のお墓所からもう一つ山奥に同じようなスペースを取って、3段構造で作られていました。

上段に置かれた墓石の右側には頼常公のお墓にはなかった細長い石標がひとつ。

明治になって皇室から位が送られたため、新しく石標が建てられたのだとか。



🚩霊芝寺のお墓所の特徴

 ★お墓参りで入ることができるのはお殿様でも中の段まで。上段には上がれないほど、お墓は大切な場所だったよう。

 ★ご当主と正室は必ず隣に葬るのが水戸徳川の特徴ですが、高松松平は別!

 ★台座の形が水戸と違う(本家は亀の形、こちらはシンプルな四角い石の上)



お殿様のお墓にもいろんな決まり事やお家によっての違いをかなり感じることができ、非常に興味深かったお墓所見学。

参加された地域の方も、
「すごく山の上にあって驚いた」
「もっと大きくて派手なものかと思った」
「ただ、凄いなあと感動した」など、いろんな感想をおっしゃっていました。


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最後に「なぜ香川県の中でも霊芝寺をお墓所に選んだのか」の答えに繋がりそうなヒントをお聞き出来ました。


(香川県立ミュージアム学芸員 御厨さん)

「実は水戸と霊芝寺の似ているところとして『立地』があります。

 茨城県にある水戸徳川家累代のお墓所『瑞龍山』も同じような山の中。

 水戸本家のお墓の作りに習って、この山の中にある霊芝寺を選んだのではないかとも考えられています」



この場所を選ばれた理由は、本能が求める「終焉の地」だったのかな…?と思うと
2代目 頼常公9代目 頼恕公を少し身近に感じることができました。


そして!
この週末、普段は見ることのできない霊芝寺のお墓所を私達も拝観することができます!
普段は公開されていませんので、このチャンスに足を運んでみてくださいね。

  ↓  ↓  ↓  ↓

霊芝寺 お墓所、御成所(お成りの間) 一般公開

2017年6月18日(日)10:00〜16:00

※お成りの間、お墓所の撮影はご遠慮ください。


次のブログ記事では、修繕されたばかりの御成所についてご紹介します!
合わせてチェックして、一般公開に足を運んでみてくださいね♪




【霊芝寺】

場所/さぬき市末695【地図

お問合せ先/087-894-2425


posted by sanuki-asobinin at 14:00| 香川 ☀| Comment(0) | 歴史・文化財 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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