さぬき市前山にある「おへんろ交流サロン」にて、興味深い企画展が開催されています。
「納経帳」ー納経帳から見える四国遍路ー
2月25日(日)まで開催中!
参拝時に御朱印をいただくおへんろの必需品「納経帳」。
サロンに寄贈された100冊余りの納経帳をめくってみれば、これまで気づかなかったお遍路の歴史が続々と!
「札所は自分の寺番号を知らなかった?」「自然災害で特例アリな四国遍路」「同じ札所が2つあった!?」などなど、この企画展を見ると、納経帳の歴史にそんな出来事があったの?とびっくりニュースが盛りだくさん♪
片桐館長に解説いただき、見どころを教えていただきました!
さぬき市前山、「道の駅ながお」の向かいにある「おへんろ交流サロン」にやってきました。
こちらでは四国遍路の結願寺 八十八番札所「大窪寺」に向かうお遍路さんを接待するほか、長く続いてきたお遍路の歴史やそれに関わる人物の情報が常設展示されています。
遍路をさまざまな視点から紐解く企画展も夏・冬に開催。
現在は冬の企画展として、2月25日(日)まで、「納経帳」展 ー納経帳から見える四国遍路ーが行われています。
納経帳は霊場を巡るお遍路さんが各札所で参拝を終えた後、納経所で墨書・御朱印をいただくもの。
お遍路を始めるときに揃えなくてはいけない大切なアイテムの1つでもあります。
「おへんろ交流サロン」には、地域の方や結願を迎えたお遍路さんから寄贈された納経帳が100冊ほどあり、今回の企画展ではそれらを改めて捲ってみることでわかった3つのポイントが展示されています。
ポイント@ 札所のお寺は自分の寺番(札所番号)を知らなかった?!
納経帳を見てみると、そこには定型の書き方があることがわかります。
ページの右上に札所の番号(寺番号)。
真ん中にはご本尊様を表す梵字。
左下にはお寺の名前が書かれています。
ここで注目したいのは右上のお寺の番号。
時代の異なる100冊以上の納経帳を調べてみると、だんだんと手書き→朱印→ハンコに変わってきたこと。
札所によって自分の寺番号を書き記した時期が違うことがわかったそう。
展示スペースには寺番の書き方移り変わりの一覧を展示。
お寺や地域によって時期が全然違うことがよくわかります!
そもそも四国遍路のブームが始まったのは、1687年に刊行された真念の「四国遍路道標」と言う一冊のガイドブック。
その中には八十八のお寺にそれぞれの札所番号が振られ、順に回っていくという巡礼のシステムが書かれていました。
ただし、納経帳に札所の寺番が書かれ始めたのは本が出た後の1710年。
つまり、お寺は自分が何番にあたるのかを知らなかったことが予想されます。
ちなみに一番最初に寺番を書き始めたのは一番札所の霊山寺。
また、霊山寺の近くにある二番・三番はほぼ同時期に寺番号を書き始めています。
逆に香川県の西讃地区の札所は寺番号を書きはじめたのが遅かったことが分ります。
近場のお寺同士が同じ時期に変化しているのは、ご近所同士で様子を探り合っていたのかも?
「おへんろさんがよー見とる本にはうちが一番って書いてるらしいわ」
「ほなうちは二番かな?」
「最近寺番をハンコにしたんや」
「ほな、うちもそうしよか。」
といった会話が当時は行われていたのかな?とつい想像してしまうのでした〜。笑
ポイントA自然災害で特別措置もアリ!な納経
一覧表を見てふと、土佐・宇和島周辺の札所に大きな空白を発見。
その理由とは?
(「おへんろ交流サロン」片桐館長)
「1854年におこった安政の南海地震の後、かなり被害があった伊予南部・土佐にある札所にはお遍路さんが入ることができませんでした。
そのため当時のお遍路さんは二十三番薬王寺から吉野川沿いに伊予へ入りました。
二十四番からの納経はなく、この地域の札所は空白になっています。
面白いのはその時期の納経帳の二十三番薬王寺の次のページ。
『土州十七ヶ所遥拝處』と言う記述がありますが、これは当時行けなかった土佐藩と宇和島藩の札所を思い、薬王寺を参拝すればその後の17か寺(月山を入れて)の巡拝を完結させたとして記されたものではないかと思います。」
お遍路でも自然災害寺にはこんな特別措置が行われることもあるんだなあと新しい発見がありました!
ポイントB神仏分離によりできてしまった双子の三十七番札所
明治初年の「神仏判然令」が出るまで、神仏習合として神社には仏様を祀ってあったりお寺(別当寺)が隣接していました。
神仏分離が言われるようになり、神社から仏像が取り除かれたり、別当寺は廃寺になることも。
四国遍路の中には神社が札所になっていた場所もあり、その場合は別当寺に引き継がれたり、別当寺が廃寺になった場合は別のお寺が引き受けることもあったそう。
そんな中で起こったのが「三十七番札所」が2ヶ所ある現象。
明治4年まで三十七番札所の大師堂と納経所があった「仁井田五社」の別当寺「岩本寺」は神仏分離により一時廃寺となりますが、明治22年には復興。
その間に岩本寺の札所の権利を愛媛県八幡浜市の吉蔵寺が買い取っていたことから、しばらく三十七番札所は吉蔵寺が名乗っていました。
しかし明治42年の納経帳から三十七番札所として「吉蔵寺」と「岩本寺」の2つの納経が見つかっており、一時期三十七番札所が2つ存在していたことを発見!
(明治31年の三十七番岩本寺の納経)
九州から四国へ入ってくるお遍路さんが最初に到着するのは八幡浜ということもあり、大正9年に四国巡礼を行った高群逸枝も八幡浜から四国に上陸した際は吉蔵寺に立ち寄ったことがわかる書物の一文も展示。
本来の三十七番が復活した後もしばらく吉蔵寺が機能していたことがわかっています。
札所の権利って買い取ることができるんだとか、同時に2ヶ所札所ができたりするんだ、とびっくりなおへんろの歴史でした〜!
四国霊場は誰が88という数に限定したのか、誰がその順番を決めたのか、などはわかっていません。
納経帳を改めて見ることで遍路の意外な一面や、今からは考えられない歴史が発見でき、やっぱり遍路は面白い!と感じました。
まるで謎解きのような遍路の世界を楽しみに、3連休は「おへんろ交流サロン」の企画展を覗いてみてくださいね。