時代を超えても境目の問題や人の関わりはそうそう変わらないもの。
2月末まで「へんろ資料館」で開催されていた企画展「真部家古文書展〜境目の村・奥山村〜」からそんな風景が見えてきました。
江戸時代に現在のさぬき市多和の庄屋を務めていた「真部家」。
残した古文書からは、隣接する三木町・徳島県とのさまざまな問題が浮き彫りになっています。
山間部の輸送問題や水利の争いまで。
「へんろ資料館」の片桐館長に解説いただき、現代との共通点の多さにも驚きました。
江戸時代の四国遍路ブームにより増加した四国内の人の往来。
それにより、国境で取り締まりに関わっていた各地の役人・政所は多くの文書を交わし、問題を解決してきました。
その様子がわかる貴重な資料のひとつが「真部家古文書」。
藩政初期〜中期まで現在のさぬき市多和の政所となった真部家が残した文書には、その時代の風習や風俗、司法・行政の様子が残され、さぬき市の有形文化財にも指定されています。
「へんろ資料館」ではおよそ1400点ある真部家の古文書を読み解き、わかったことを企画展として展示し続けています。
今年度の冬の企画展(2026年2月末まで開催)では「境目」をテーマに、江戸時代の旧寒川郡奥山村(現在のさぬき市多和中山)にスポットを当てて真部家古文書の内容を紹介。
奥山村は徳島と三木町との境目にあり、江戸時代には地理的な課題からさまざまな問題が起こっていたそうです。
まずは地理的な位置関係を国境絵図で見てみましょう!
上が真部家が庄屋を務めていた頃の地図、下が現在の地図です。
よくよく見てみるとその境目は今の県境・郡境とほぼ同じ。
尾根筋や川を境に南が徳島県、北が香川県。(地図は北南逆になっています)
境目には高松藩の家老が巡警に訪れ、見回りに来たときにその時の庄屋さんを呼びつけて聞き取りを行っていました。
徳島との県境:山を経由して行う炭の輸送に関する問題
真部家は、阿波側からの「山を越えて讃岐側に燃料の炭を運び込み志度の港から大阪に輸送したい」という希望に、通行税を取ることで了承していました。
それを彦坂織部に伝えたところ叱責され、以来通行税を辞めたという文書です。
一見、Win-Winな関係かと思えるこの取引ですが、通行税を勝手にとっていたことや、山を越える際に木を伐採して近道を切り開くことが讃岐側の山にも影響があると思われたことから真部家は叱られることに。
立地的に怪しいものに住み着かれる可能性も無くはないから見張りをするようにという指導もあったようです。
山深い境目ならではの立地がこんな問題を生むことになっていたとは。
奥山村の土地問題
こちらの文書からは奥山村が農業に厳しい土地だったことから年貢米を納めるのに大変苦労していたことがわかります。
田んぼが鹿やイノシシの獣害や凶作など、現代と同じような課題を抱えていたことに驚きました。
真部家が担当した菅谷免(大窪寺トンネルを超えたあたり)、中山免(三木町側)は土質に恵まれず、害獣も出る山に囲まれたエリア。
住んでいる人たちからは年貢の免除・等級を下げるお願いや「作る人間がいなくなったので徳島県側の村に作って欲しい」という願書もたくさん残っていました。
後々、真部家は藩政中期に没落しますが、その理由として、自腹を切って地域のこういった年貢問題を解決してきたのでは?とも言われています。
(ちなみに真部家没落後は前山の庄屋さんが多和地区の庄屋を兼務していたようです)
三木郡との境:うちの水はうちのもの問題
最後に三木郡・寒川郡の郡境での「水争い」に関する文書。そのやりとりが残っています。
三木郡中山のお百姓さんが「両郡の境にある『いの谷』に池を作って一緒に使おう!」と提案。
しかし寒川郡(さぬき市)奥山側は「いやじゃ!『いの谷』は昔から寒川郡が使っている水。うちのコメができんようなる!」と反論。
『うちの水はうちの水』問題は昔からあったのだと遠い目になるひととき。
その後も巧みに我が田に水を引き込もうとする攻防も!
大政所が出てきて「池を作ろう!」と言っても納得せず、最終的には水路を作ることに。
それでもまだ納得していないということが文書からわかります。
ここで片桐館長の疑問!そもそもの話、、、
郡境を川で分ければそこまで問題にならなかったのに、なぜ中途半端なところで分けたのか?
また、この辺りは吉野川水系のはずなので分水嶺(水が流れる行き先)は徳島県吉野川。
徳島県にしておけば何も問題がなかったのでは?と片桐さん。
その謎は真部家古文書を読みつき続ければ解決するかも??
今も昔も「下書き」は自分が読めればOKだった!!
今回の企画展では口上のための覚書が展示されていました。
「覚(おぼえ)=「控えを残す」こと。つまり下書き。
ここに残っているのも「控え」なので『自分が読めたらいっか!』的な筆跡だらけ。笑
現代でも会社や行政に提出する正式な文書は綺麗に仕上げますが、自分の控えはついサラサラ〜と書いてしまいがち。
間違えてぐちゃぐちゃっと消してたり〜
もう、なんて書いてあるのかわかんない!って文字も〜
自分のメモを思い出す瞬間でした。。。
ちなみに「覚(おぼえ)」は清書のために何枚も書くので、真部家古文書の中に同じ文書が何枚もあるのだそうです。
パソコンを使えば修正や複製は一瞬でできますが、昔はそんな神器もなく、自らの手で残すしかなかった。
庄屋さんの忙しさの大部分を下書き時間が占めているのではないかと思う展示なのでした〜。
今後も「へんろ資料館」では真部家古文書からわかったことを展示される予定です。
ぜひ庄屋さんならではのお仕事や悩みを展示から読み取ってみてはいかがでしょうか?現代との共通点もたくさん見つかりますよ〜!


